1973年12月7日生まれ
お笑い芸人、作家、俳優。
『訪問介護事業所ENJOY』オーナー。
先天性多発性関節拘縮症のため、
生まれたときから両手両足が使えない。
高校生の時から電動車いすで南野 陽子さんや
プロレスラー・天龍 源一郎選手の追っかけになる。
また立川 談志さんや高田 文夫さんのお笑いライブに通いつめるほどのお笑い好き。
中学、高校時代に 『ビートたけしのオールナイトニッポン』を聞き、
大ファンだったビートたけしさんに憧れる。
お笑い好きが興じて1994年6月に大川興業主催の
若手芸人コンテスト『すっとこどっこい』で、
"史上初の身体障害者のお笑い芸人" 「ホーキング青山」としてデビュー。
同年12月、『NONFIX-青山 世多加-』(フジテレビ系)が放映され
『放送文化基金ドキュメンタリー部門奨励賞』を受賞。
2002年2月にビートたけしさんが審査委員長を務める東京スポーツ新聞社の
『第2回ビートたけしのエンターテインメント賞』で『日本芸能大賞』を受賞。
以降、デビュー前からの憧れだったビートたけしさんに懇意にしていただく。
同年秋、北野武監督作品『Dolls』で映画初出演。
神田神保町のらくごカフェにて毎月ライブを開催。
従来の漫談に加え、落語や講談、一人コントにも挑戦中。
2009年4月に『訪問介護事業所ENJOY』を設立。
障害者の目線による理想の介護を目指し奮闘中。
著書 『差別をしよう!』(エッセイ集) 河出書房新社
『日本の差法』(ビートたけしとの対談集
『笑え!五体不満足』
『言語道断!―ホーキング青山自伝』など
映画 Dolls(2002年)
白カラス(2008年)
暗闇から手をのばせ(2013年)
ホーキング青山さんホームページ http://www.hawkingaoyama.com/
ホーキング青山さんがお笑い芸人になった理由
ホーキング青山さんとヨウメイ
東京都千代田区神田神保町。
世界最大規模の古書街。
決してグラビアアイドルの写真集や、
有名な作家の初版本を探しにきたのではない。
目指していた場所はカフェ。
カフェはカフェでも落語カフェ。
この日はお笑い芸人ホーキング青山さんが
毎月一回開催されているお笑いライブを偵察に
やってきたヨウメイであった。
ちょうど、一週間後にホーキング青山さんに
インタビューできることが決まり
その前にはライブを拝見しなければ
お話にならないと思いやって来たのであった。
ホーキング青山さんのライブを初めて見てから
10年以上の月日が経っていた。
ホーキング青山さんを知ったのは
大川興業の大川豊総裁の名著、「金なら返せん」シリーズである。
当時、学ランで「どんとなった花火〜」を歌い、
一斉を風靡した大川豊総裁。
学生時代に就職活動で153社を落ちた
大川豊総裁が大川興業を設立し
そしてことあるごとに借金を積み重ねていく姿が
おもしろおかしくコラムとして
人気情報雑誌「ぴあ」に連載されていた。
ヨウメイにとっては借金ごときで死ななくていいと教えられ
心のバイブルになっている名作である。
そんな名著「金なら返せん」シリーズの中に
ホーキング青山さんが登場したのであった。
先天性多発性関節拘縮症という障害を持ち、
生まれながらにして手足が使えない。
それにも関わらず車いすを乗りこなし、お笑いライブに通ったり、
アイドルの追っかけをしていたホーキング青山さん。
ブサイクむらの住人であるヨウメイにとって
めっさすごいと思えたのは
バブル全盛時代に高級車で乗り付けおねーちゃんをナンパするのではなく、
車いすで乗り付けおねーちゃんをナンパし成功していたことであった。
当時のヨウメイにとっては街中で見ず知らずのおねーちゃんに
声をかけるなんてとんでもない。
大阪の京橋駅でおねーちゃんに声をかけようと3時間ねばったものの
一人にも声をかけることができないヘタレには
なんてすごい人が世の中にはいるもんだと衝撃を受けたのであった。
そして、なによりもオモシロかったのは大川総裁との
やりとりである。
大川総裁のコラムがオモシロいこともあるのだろうが、
ホーキング青山さんの明るさとオモシロさが文章の中に
にじみ出ていた。
詳しくは、「金なら返せん」シリーズをご覧いただければと思う。
そんなヨウメイに衝撃が走ったのであった。
なんと、ホーキング青山さんが、大川興業のお笑いライブ
「すっとこどっこい」でお笑い芸人としてデビューされたのであった。
障害者であるにも関わらず、人前に出て芸をし、人を笑わせる職業を選ばれた。
なんて度胸のある人なんだと、ヨウメイの心には強く残ったのであった。
当時のヨウメイは大川興業に所属されているエガちゃんこと
江頭2:50さんに憧れていた。
過激な芸で当時は江頭さんを好きだといっていると
周りからはおかしな感じで見られていたが、
テレビに映っていない江頭さんはものすごく礼儀正しいと聞いていた。
テレビでは「レギュラー番組よりも、一回の伝説!」と
豪語されている姿がどあほにとってはとてもかっこ良く映ったのである。
就職してからのこと、江頭さんのマネをして、
撮影現場で
「畳の上で死ぬよりも、現場で死んだ方がいい」
と言ったら、
「撮影現場が止まるからそれだけは辞めてくれ!!!」
と怒られ、それまでは死んでもビデオカメラは
守ろうとしていたが、もっともだと思い危険なことがあると
命より大切だと教えられた収録テープの入った
ビデオカメラをも捨てれるようにまで成長するのであった。
話がちょっと横にそれたので戻すと、
本当かどうかはわからないが大川興業の入社試験で
何もできなかった江頭さんをなんとかしなければ
ならないと思い採用を決められた大川総裁。
そんなうわさ話を聞いていたので、もしかすると
ホーキング青山さんに続き、
ヨウメイも大川興業の構成員になることができて、
芸能界にデビューできるのではないかという
野望を抱いていたのであった。
ただ、皆さんもご存知のことかと思うのだが
芸能界で活躍し生き残り続けるのはとても厳しい。
オモシロい人、カッコいい人たちでもご飯が食べれない人が多くいる。
そんな世界で一生、生き残れるのか?
でも、ホーキング青山さんはお笑い芸人になられた。
大川興業に入って、借金生活が楽しめるのか?
貯金がなくなると焦ってしまうヘタレである。
オモシロい話ができるか?
その当時は、ブサイク村の住人であることを誇りに思うことはなく
自分のことが嫌いでさえあった。
そんな人間が、人のことを楽しませ、笑わせることができるだろうか?
選択した答えはNOであった。
それでも好きなことを仕事にしご飯が食べたい。
卒業が3ヶ月後に迫っているにも関わらず、
全く就職活動をしていなかったヨウメイに職はナシ。
しかし、なんとかして映像業界に潜り込もうと
あがいていると神様はお仕事を授けてくれるものである。
今思うと、受けた会社に落ちていたら、今の自分はないのである。
本当に運があったとしかいいようがない。
一社だけ面接に行った会社が人手が足りないこともあり、
専門学校にも通っていないにも関わらず、
撮影技術会社になんとか潜り込むことができたのである。
そのことにより、大川興業へ入る夢は断念したのであった。
そしてカメラアシスタントとして嫌な先輩にいびられ
本当に嫌で心が折れかけようとしたとき、
思わぬ記事を目にしたのであった。
なんとホーキング青山さんが、
北野武監督の映画「Dolls」に出演し
芸人だけでなく役者としても活躍され始めたのであった。
タレントとして活躍されているホーキング青山さんが正直うらやましかった。
芸人になっていればヨウメイにももしかすると北野監督作品に出れる
可能性はあったかもしれない。
夢はあきらめたら終わりなのである。
しかし、神様はヨウメイにもう一度大川興業の構成員になれるかもしれない
チャンスを与えてくれたのであった。
短大を卒業し、好きな映像業界に就職できたにも関わらず、
2年ほどで会社が嫌になり辞めたヨウメイ。
貯金が50万円そこそこしかなかったにも関わらず、
27歳にしてはやくも家に立てこもりふらふらしていたときである。
あと、3ヶ月はなんとか生活できる。
しかし、次の職種先を探さなければ借金生活になってしまう。
借金!?
借金と言えば大川興業。
大川総裁ならヨウメイを救い、拾い上げてくれなんとかしてくれるかもしれない。
すぐに大川興業のホームページを探すと
なんと構成員を募集していることを発見したのであった。
構成員になるには2万円が授業料として必要です。
確か、但し書きにはそんなことが書かれていたと思う。
そして、履歴書と志望動機と作文を書いて送ってください。
合格者には通知します。
2万円か!!!
これは最後のチャンスと思い応募したところ、
何と合格通知が返ってきたのであった。
まさか受かると思ってなかったので、
保険をかけて他の制作会社をいくつか受けていたところであった。
さてどうしよう?
お笑いの方に進んで食えるのかどうか全くわからない。
そんなときに、たまたま受け、一度落とされた制作会社から
ちょっとやってみないとオファーが来たのであった。
どっちに進もうか決めなければならない。
ちょうどその時、ホーキング青山さんが
お笑いライブをやっていた。
それならホーキング青山さんのライブを見てどっちに
進むか決めよう。
ということで初めてホーキング青山さんのライブを見た。
毒舌が効きすぎ、尖りすぎていた。
そして、ホーキング青山さんがものすごく怖く感じた。
大川総裁の金なら返せんで読んでいる
優しいホーキング青山さんのイメージしかなく、
かなりきついことをしゃべっていた
ホーキング青山さんに度肝を抜かれた為であった。
中学生の頃、北野武監督の「その男、凶暴につき」を
観てあまりの残虐さに衝撃を受け、
20歳を超えるまで北野監督の作品が見れなくなってしまったのと
同じようにホーキング青山さんのお笑いにも
心を閉ざしてしまったのである。
そんなこともあり、いざ制作会社に入ってみると
ビデオテープのダビングなど雑用が始まり忙しすぎたこともあり
入ったばっかりなので言えなかったのだが、
「毎週休みをいただき、大川興業の構成員研修にいきたい」とは言えず
期日になって自分から辞退したのであった。
今思えば、やはりあの時ダメであったにしろ
上の人に相談していればよかったと心の底から思われる。
それで、ダメならあきらめられるが、
可能性があるのにも関わらず、
何の相談もせずにチャンスを逃してしまったと思いそこだけは
後悔している立てこもり中のヨウメイである。
あの時、大川総裁からいろいろとお笑いについて学んでいれば、
少しはヨウメイの構成力がついた上に、ギャグセンス
抜群のおもしろいナレーションが書けていたかもしれないのである。
大川興業の構成員になれなかったヨウメイではあったのだが、
お笑い芸人を辞めることなくずっと続けていた
ホーキング青山さんのことはずーっと気になり
一度はお話をお聞ききしたいと思っていた。
番組企画でホーキング青山さんのことは出してみるものの
偉い方々を全く説得する力がヨウメイにはなかったので一度として
通らなかったのであった。
それならば直接お話を伺えないかと思い企画書をお送りしたところ
ホーキング青山さんからすぐに返信があり
よろこんで出演を快諾してくださるお返事が返ってきたのであった。
それならば、お話を伺う前に、昔見たホーキング青山さんの
ライブがトラウマとなり封印していたが、
お笑いライブを見に行こうと決めたのであった。
神田古書センター5階にある落語カフェは満員で
ちょっと遅れていれば入れていない可能性もあるほど
お客さんが詰めかけていた。
時間になりホーキング青山さんが登壇された。
ホーキング青山さんがお一人でトークを始めた。
やはり、昔と同じように毒舌である。
時事ネタから障害者ネタまで。
ネタを披露されだすと会場は大爆笑であった。
そして、ホーキング青山さんのリズム感のいい
つぎつぎとくりだされる面白い話をきいていると
オールナイトニッポンでビートたけしさんが話されているのかと
思えるほどたけしさんにそっくりであった。
10年以上たって聞くホーキング青山さんの話はおもしろすぎた。
会場で笑っている人たちと一緒になって声をだして笑っていた。
すごい博識だと思った。
それもそのはず、理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士から
名前をいただいているはずである。
何の努力もなしに、あれだけのネタを披露はできない。
めっさお笑いを勉強されている。
やっぱり、構成員にならなくてよかったと思うヨウメイが
会場の中にいた。
トークが終わると、ホーキング青山さんが落語を披露されていた。
そこには進化し続けるホーキング青山さんの姿があった。
ライブが終わると、親子連れがプゼントを渡そうとしていた。
忌野清志郎さんの名曲「ファンからの贈り物」にあるように
ゴミ箱に捨てるのか!と思ってみていると
「いやー 腕が使えないんで受け取れないんですけど!
気持ちは心で受け取りました。
ありがとうございます。
こちらに置いてください。」
お母さんと子供が笑顔になった。
一週間後、ホーキング青山さんのインタビュー収録が行われた。
ちょうど一年前のことである。
インタビュー中、優しいホーキング青山さんのことは
完全に忘れていたヨウメイは毒舌のホーキング青山さんを
イメージしていて、思うようにインタビューが撮れなかったのである。
それなのに、常に気遣って頂やさしい言葉をかけ続けてくださる
ホーキング青山さん。
「欲しいコメントでるまで大丈夫ですよ。何でも聞いてください。」
それでもお忙しいのにも関わらず待ち続けてくれたホーキング青山さん。
うーん。
撮れなかったと勝手に思い込んだヨウメイが本当にどあほであった。
紹介用VTRを作ってみると全然失敗では無く
その逆であった。
ホーキング青山さんはよく考えて話して下さっていたことが編集をして
わかったのである。
金八先生に言わせれば
「このばかちんが!!」である。
一年も経ってお待たせしましたもあるかと怒られるのかと思いながら
恐る恐るホーキング青山さんに報告をすると
「ありがとうございます」
とメッセージが返ってきた。
スマートフォン用 33分
i-phone用 33分