1935年10月9日 生まれ
満州安東県出身。
日本を代表する特技監督。
代表作
「日本沈没」「ゴジラ(1984)」
「メカゴジラの逆襲」など
少年時代、日本の敗戦とともに飛び交う銃弾の中をくぐり抜け、
福岡県博多に引き揚げてくる。
日本大学を卒業後、東宝砧撮影所に入社。
「ウルトラマン」「ゴジラシリーズ」などを手がけた
日本の特殊撮影技術の神様、円谷英二氏に師事する。
東宝の3代目の特技監督に就任する。
「爆破の中野」と呼ばれるほど、大量の火薬を使用した映像は必見である。
特技監督として数々の撮影手法をあみだし日本の映画界に多大な影響を与え
多くの人々を魅了し続ける未だ現役の映画監督。
著書 「特技監督 中野昭慶」 発売中!
「本日は、よろしくお願い致します。
中野監督、まだ現役で…」
「まだ監督は引退した覚えはないし、映像制作は続けとるよ。
それにまだまだ、若者には負けられんよ!」
バッリとしたシャツにジーンズ。
10年前にお会いしたときと全く変わらない、
とてもオシャレな中野昭慶監督の姿がそこにあった。
そして驚くべきは未だ映像制作に対して情熱の炎が消える事なく
映画監督を続けられている事である。
お話を伺ったときも最近ご覧になったアニメーション作品や映画について、
ヨウメイの興味をひく話を延々と話してくださる中野昭慶監督であった。
中野監督に始めてお会いしたのはかれこれ10年も前のことである。
その頃のヨウメイは映像制作に携わり1年が経とうとしていた。
しかし、まだ映像制作の面白さに気づくこともなく、
言われた事しかできない、本当に使えないただのどあほであった。
その上、やらなくていい、いらないことだけは誰よりも率先してやり、
会社をクビになりかけているときであった。
ただ、唯一できていると言える事は、
先輩であるふっちーさんに教えられたことある。
それは編集や撮影をうまく進める為にはお菓子とうまい弁当の準備を
怠らないという事である。
それがあれば撮影や編集に関わる人のモチベーションが上がり、
スムーズに事が運ぶのである。
その為に、決められた予算を超えかねないほどのお菓子と
うまい弁当の発注をすることだけに全力を注ぐ日々であった。
それ以外の制作において、あまりにも仕事のできなさぶりに
それまでヨウメイの面倒をみていてくれた、
たかっしーにも
「お前の面倒はもう見ん。好きにしろ。」
と一度は見放されたのであった。
映画やアニメに興味はあっても、肝心の制作の仕事が全くできない。
そんなヨウメイに一度見捨てられた、たかっしーと再び仕事ができる
機会が訪れたのであった。
その時、遂行しなけらばならないミッションは
映画監督の樋口真嗣さんの紹介である。
樋口真嗣監督。
「ふしぎの海のナディア」の絵コンテや監督、
そして「ガメラシリーズ」の特技監督をされた
日本のトップクリエイターである。
NHKで放送された「トップランナー」で渋谷が破壊される様子を
一瞬で絵コンテに描かれる樋口監督。
恐ろしいほど早いカット割り。
そして絵コンテを書いている時に完全に自分の世界に入り込んでいる樋口監督。
同じ土俵に上がろうとしているのが恐ろしく思えるほどであった。
その樋口監督にお話が聞けるのである。
こんな機会は2度とないので、頑張らねばならないと思うヨウメイであった。
しかし、気持ちだけが先走り、空回りしてしまうのであった。
樋口監督の撮影で伺った某撮影所。
前日、打ち合わせの時、やまさんから
「明日の撮影で樋口監督の写真あった方がいいな」
という一言をしかと脳裏に刻み付けたヨウメイ。
ヨウメイは機能していないが撮影は順調に進む。
そして、樋口監督のインタビューが一旦終わり休憩に入ったその時、
ヨウメイは樋口監督を撮影するため、カメラを持ち出し、
樋口監督の写真を撮影した。
すると周りにいた偉い人たちがすごい勢いで駆け寄ってきたのであった。
撮影する前に一言、「写真撮ります。」
と断わってから行えばなんの問題も起こらなかった。
しかし、写真を撮る事だけに集中していたヨウメイにとっては、
その一言が出て来なかったのである。
無断で撮影した事で大問題に発展したのであった。
危うく収録が中止になりかけた。
やってしまった後に事の重大さに気づくドアホな
ヨウメイである。
やまさんとたかっしーが偉い方々に謝ってくれたおかげで
その後の収録は無事行うことができた。
問題を起こした数日後。
樋口監督が尊敬する中野昭慶監督にお話を伺うことが決まっていた。
そして、撮影場所を手配する時にヨウメイはまたやらかすのである。
たかっしーに
「インタビューする為の部屋を押さえろ」
と言われ、ただ、言われたことをそのまま聞き、
インタビュー用のスタジオを予約したのであった。
しかし、その部屋には他の番組を収録するための舞台セットや
大道具が所狭しと置いてあったのである。
インタビューを撮るだけだから場所さえ押さえれば撮影できると思っていた。
すると収録前日になり、たかっしーから
「こんな場所では収録できない」
と怒られ急遽収録場所を探さなければならなくなったのである。
余談になるがたかっしーもこのとき、インタビューする中野監督の背景に
日本沈没の映像を流そうとして莫大な予算がかかろうとしていたことを
ヨウメイが未然に防いだことだけは確かである。
手配していたスタジオをキャンセルし、別のインタビュー用の部屋を
手配し直すことになったのである。
失敗続きでぐだぐだのヨウメイは自分で勝手に腐っていた。
そんな状態で、中野監督の撮影日がやってきたのであった。
中野昭慶監督。
日本を代表する特技監督。
代表作に日本沈没やゴジラシリーズがある。
爆破の中野と異名をもつほど特撮シーンでの爆破のシーンは必見である。
中野監督の作品のなかで特に好きなのが中野監督の撮影したキングギドラである。
3つの頭をもつキングギドラをうまく動かしゴジラと戦っているシーンは
今見直してもよく撮影できていると思う。
待ち合わせ場所で待っていると、G−ジャンにジーンズ姿で
中野監督がやって来られた。
とても70歳を迎えられた方には見えなかった。
オシャレであり、その上、威厳がありカッコいい。
そして定年を関係なく好きなお仕事をつづけられ、未だ現役なのである。
こんな歳のとり方ができればカッコいいなと思うヨウメイであった。
インタビューする部屋をとり直したことはなかったことの様にして、
中野監督を案内するヨウメイの姿がそこにはあった。
たかっしーが中野監督にインタビューを始める。
「樋口監督とはどんな少年だったのでしょうか…」
「当時の樋口少年は…」
中野監督が実体験を交えながら楽しそうに話される。
その撮影秘話が面白すぎるのである。インタビューの間笑いをこらえるのに
必死であった。
その事がずっとヨウメイの印象に残ったのは言うまでもない。
そして、インタビューも無事終わり
中野監督が帰られるので外までお見送りにいった。
お車代を渡そうとしたとき、
中野監督が、
「君、まだ若いんだから、がんばりなさい。
僕でもまだまだなんだから、
ちょっとした失敗ぐらいでくじけずに前を向いて進みなさい。」
と暖かい声をかけてくれたのであった。
そして、車代を受け取らず颯爽と帰って行かれる
中野監督の姿がまぶしくヨウメイの脳裏に焼き付いたのであった。
その言われた一言が励みになり、これまで、映像制作が続けて来れたのであった。
10年経ってみて、あのときの面白かったお話を再び
伺ってみたいと思い、中野監督に連絡を取ろうとした。
しかし、連絡先が解らないのである。
当時、確かに監督のお名刺を見たはずである、
家の中を探しまわってみたものの、監督の名刺だけが
どうしても出て来ない。
撮影当日、名刺交換していなかったのである。
たしか、それであれば、たかっしーなら名刺をもっているから
連絡先を知ることができるのではないかと思い連絡すると、
「おれ、連絡先しらないよ。」
何と知らないの一言で終わりである。
ちょっとは探してくれてもいいのではないか!!
はっきり言って鬼である。
そんなときにやまさんに相談すると、
「探している過程がおもしろいから自分でなんとかしろ」
と言われる始末。
こうなれば、探す手だてはひとつ。
連絡先のバイブル「芸能界紳士録」
これに手をだせば、連絡先がわかるかもと思い書店へと向かう。
目的の本はそこにあった。
しかし、中が読めない様にビニールで封がされている。
購入しようかと思ったが、9000円は高すぎる。
その上、購入して載っていなければどぶに金をすて、
さらにヨウメイの家計は火の車になるのである。
購入するかどうか迷ったが、ここで冒険はできないと思い、
手に取った本を基あった場所に戻す。
若ければ迷わず購入していたと思うが、おっさんになりちょっとだけ
考えるということを学習したのであった。
このご時世、なのでインターネット上にどこか情報が出ていないかと思い探すと、
昨年、中野監督がイベントに出演されていたときの
担当者のメールアドレスを発見する。
ただ、見ず知らずのおっさんが連絡をしたところで教えてくれるはずはないと思い
あきらめていた。
紳士録さえあれば…。9000円。
どうしようか真剣に悩んだ。
そんなとき、もしかしてふっちーさんなら持っているかもしれないと思い
連絡をした。
すると忙しいにも関わらず、どあほの為に時間をさいて
連絡先を探し出し教えてくれた。
その連絡先は、昨日、自分が探したものと同じものであった。
「わたしってお仕事できるでしょ!」
と念をおされたが、さすがに「それ、昨日みつけました」とは言えず、
「ありがとうございます。今度、甘いもの持ってお伺いします」
と返事をして未だに何も持って行っていない不届き者のヨウメイである。
第三者に連絡をして電話番号を教えてもらうことは無理だろうと
一度はあきらめていたが、それしか連絡をとる手段がないことがわかった。
先に進むには連絡をするしかないのである。
ふっちーさんが後押しをしてくれた。
中野監督のイベントを開いた主催者の連絡先にメールを送ると担当の方が、
中野監督にわざわざ連絡をしてくれ、中野監督の連絡先をおしえてくれた。
幸運なことに中野監督が企画書を拝見したいので送付して欲しいとの
伝言までいただいた。
すぐに普段、書いた事のない手紙を5時間かけて書きあげ、
企画書と一緒に中野監督にお送りしたのであった。
お手紙と企画書を送った数日は連絡が全くなかったので不安で仕方がなかった。
やっぱりダメなのかと思っていたら、家のポストに
一枚のハガキが入っていた。
どっかの領収書かと思って差出人の名前をみると中野監督の名前が!!
なんと返信のお手紙を頂き取材okとのこと。
頂いた手紙がヨウメイの宝物になったことは言うまでもない。
しかし、中野監督からヨウメイにミッションが与えられた。
中野監督の自伝『特技監督中野昭慶』を読んでからにして欲しいとのこと。
すぐに中野監督の自伝を拝読した。
そこには特技監督になる前のヨウメイの知らない中野監督の人生が書かれていた。
読み終わりましたのでいつご取材させていただけますかという手紙をお送りした
数日後、
突如、中野監督から電話がかかってきたのである。
それまで手紙でやり取りをしていたので
まさか電話がかかってくるとは思いもしなかった。
「中野です。」
「はい」
全く誰かわからなかった。
「監督の中野です」
ソフトボールをしていたときの監督か?
とヨウメイは思ったが、まさか中野監督から電話がかかってくるとは
思ってもいなかったので気ずくのにしばらく時間がかかってしまったことは
口が裂けても中野監督には言えない。
取材の日ですが•••
ここで電話の相手が中野監督なのだということに気づくヨウメイであった。
インタビュー場所に現れた中野監督は8年前と
全く変らないお姿である。その上、以前お会いしたときよりもお元気な様に感じられた。そして、中野監督のおもしろいトークが炸裂しだしたのである。
中野昭慶監督 前編
中野昭慶監督 後編