profile
山崎 裕(やまざき ゆたか)
1940年 生まれ。
東京都出身。
日本大学芸術学部映画学科卒。
カメラマン、ディレクター、プロデューサー
映画監督、撮影監督。
株式会社ドキュメンタリージャパン代表取締役。
株式会社いちまるよん代表取締役。
少年時代、家庭に映写機があったことでアニメーションの作品や
時代劇の作品を友達と一緒によく鑑賞。
中でもロードショーが好きで銀座や日比谷の映画館に一人で通い、
ジョン・フォードを始めとする西部劇の作品の虜になる。
その影響もあり小学校の時から映画をやろうと心に決める。
高校の時、脚本が書けないと映画監督になれないことを知り、
撮影を学びカメラマンになるため
日本大学芸術学部映画学科に進学することを決める。
特にどんなジャンルのカメラマンになろうかはっきりとは決めていなかったが、
卒業間近、国語の教師に
「一番オモシロい対象は人間だぞ」
と教えられたその一言が心に残る。
1960年、安保闘争のとき、安保を記録する会の
野田真吉さんや富沢幸男さんが撮影するなか、
日大映研にも学生たちにも撮影させようということで
フィルムが回ってきたことで、
記録映画『1960 年 6 月安保への怒り』の撮影を担当する。
石川県の観光PR映画「石川の四季」で
仕事として、撮影助手を努める。
卒業後はフリーの撮影助手として活動。
1964年、24歳のときに、
日本画家の中村正義さんが監督を努めた
「日本の華 肉筆浮世総」で
フイルムカメラマンとしてデビュー。
以降、CM、PR映画、記録映画、テレビの撮影にかかわる。
1977年、ビデオが普及しだした頃、
ビデオカメラによるドキュメンタリー番組づくりを
積極的に行う。そのころにドラマの撮影にも携わる。
1986年、制作会社ドキュメンタリージャパンに役員として参加し、
プロデューサー、ディレクターを兼任。
1988年、是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」で
劇場用映画の撮影を担当する。
以降、ドキュメンタリー映画から劇場映画の撮影監督を努める。
70歳で劇場映画「Torso トルソ」を自らが監督、撮影を行う。
2010年 から「座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」の
プログラムディレクターも務める。
75歳を越えられた今もカメラを持って、テレビドキュメンタリー、
映画の撮影に奮闘中!
主な番組・作品
撮影
『ワンダフルライフ』 1999年
『DISTANCE』 2001年
『誰も知らない』 2004年
『カナリア』 2004年
『花よりもなほ』 2006年
『恋するマドリ』 2007年
『歩いても 歩いても』2008年
『たみおのしあわせ』 2008年
『俺たちに明日はないッス』 2008年
『狛Koma』 2009年
『ANPO』 2010年
『奇跡』2011年
『 裸の夏』 2011年
『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』
『フタバから遠く離れて Nuclear Nation』 2012年
『樹海のふたり』『ひろしま 石内都・遺されたものたち』2013年
『2つ目の窓』 2014年
監督作
『Torso トルソ』 2010年
山崎 裕さんが映画・ドキュメンタリーのカメラマンになった理由
山崎裕さんとヨウメイ
東京の杉並区にある、座・高円寺。
演劇やダンスなどの舞台芸術作品の
公演が行われる芸術会館である。
そこで開催された、
「第6回座・高円寺ドキュメンタリー
フェスティバル」。
映画・テレビの枠を超えた
ドキュメンタリー映像の祭典。
学生の作品から、テレビ、映画まで入選した
傑作の作品が上映される。
ヨウメイに与えられたミッションは
そのイベントをニュースで紹介するための
映像撮影であった。
取材依頼書の担当者の名前の欄には山崎さんと
Kさんの名前が記載されていた。
依頼書を見たときにヨウメイの心はときめいた。
ドキュメンタリー。
山崎さん。
もしかして、映画・ドキュメンタリーのカメラマン、
山崎裕さんがいらっしゃる!?
これはもしかして念願がかなって
山崎さんをお見かけすることができるかも。
かすかな期待に胸を膨らませるヨウメイであった。
でも、知っている山崎裕さんはカメラマンで
まさか、ドキュメンタリーフェスティバルの
関係者なわけがあるはずないよな。
と思いながら取材時間に座・高円寺へ到着した。
ドキュメンタリーフェスティバルの会場となっていた
座・高円寺2は地下にあるので、階段を下り受付へ。
取材にきたことを受付の方に伝えると、
奥にある控え室へと案内された。
控え室にはノートパソコンのキーボードを
たたいている人がいた。
「おはようございます。
本日、ドキュメンタリーフェルティバルの取材に来たんですが。」
「Kといいます。よろしくお願い致します。」
Kさんから名刺を頂いた。
見るとドキュメンタリージャパンと書いてある。
あれ、どこかで見たことがあるなと
このとき直ぐに思い出せないダメなヨウメイ。
「取材にあたりまして、インタビューを
どなたかにお願いしたいのですが」
「プログラムディレクターの山崎が担当しますので
よろしくお願いします。」
「わかりました。」
「これパンフレットになりますのでご覧ください。」
ドキドキしながら
頂いたパンフレットをペラペラとめくってみる。
直ぐに衝撃の名前を発見し
ヨウメイのガラスの心臓は破壊された。
プログラムディレクター 山崎 裕。
ええ、マジっすか!?
カメラマンの山崎さんが
プログラムディレクター!!
なぜ!?
と思ったが素知らぬ顔でKさんに
同様をさとられぬようしれっときいてみた。
「インタビューに応えていただける山崎さんて、
もしかして、カメラマンで映画監督の
山崎裕さんですか?」
「ええ、ご存知ですか?」
ご存知も何も、ずっとお会いしてお話を聞きたい。
ヨウメイが勝手に撮影の神様だと
思っている山崎さんにインタビューができる!!
「山崎が来ましたら、
紹介しますのでよろしくお願いします。」
「こちらこそ よろしくお願いします。」
Kさん、どこかで見たことがあると思えば、
ようやく思い出したのである。
山崎さんが映画監督作品、
『トルソ』のバーのシーンで登場していたのであった。
思い起こせば15年前。
映像業界に飛び込み、
「撮影しているカメラの向こう側で、
カメラを担いで撮影しているのが山崎裕さんだよ
知ってる? 日本の重鎮だよ!」
と教えられ、ずっと山崎さんの撮影する現場に行き
技術を盗む機会をヨウメイは伺い続けていたのであった。
そして、70歳を超えられて活躍され続ける
山崎さんのお姿をみて、
果たして自分は70歳で同じことができるのか!!?
と考え、
先行きが不安になり、心が折れ
引きこもりならぬ、家に立てこもりになってしまった。
そんなヨウメイが憧れのカメラマンである
山崎さんにインタビューできる機会が訪れたのであった。
そもそも始めて山崎さんを知ったのは
学生時代に観た是枝裕和監督の
映画「ワンダフルライフ」である。
「貴方の一番大切な思い出はなんですか」
死者たちが死後の世界へと旅立つまでの1週間、
一番大切な思い出を選ぶ。その選んだ思い出が
スタッフたちの手によって映画として再現される。
死者たちの頭の中にその記憶が蘇った瞬間、
「一番大切な記憶」だけを持って死後の世界へ旅立っていく。
ストーリーも良かったのだが、気になったのは
誰がこんなにあったかい映像を撮影しているのかであった。
そして、エンドクレジットを見た。
撮影 山崎裕。
名前を知ることはできたのだが
どんな方だか写真がないので解らない。
ヨウメイは勝手に思った。
山崎さんのようなあったかい映像が
撮れるカメラマンになるのもいいな。
そして、カメラマンになれば好きな映像が撮影できる。
映像業界に入ってみて
実際は大きく違うということに気づくのだが、
当時は全くそんなことは知らない。
どあほなヨウメイはそれだけで映像の世界に
飛び込むことを決めたのであった。
卒業間近まで就職活動をしなかったにも関わらず、
運がよく撮影技術会社に就職することができた。
撮影のさの字も知らないヨウメイは撮影機材の
ことなど全くしらない。
ただ、撮影するビデオカメラと、レンズが
あわせて1000万ぐらいする高価なもので
ぶち壊すと大変なことになるよと教えられ
撮影現場に送り込まれたのであった。
最初にいった撮影現場で与えられたミッションは
カメラが10台ぐらい回っている現場での
収録VTRの管理。
VTRの知識など全くない。
「ランプが点滅しながら回っているか
確認していればそれでいい。」
と教えられ収録が始まった。
そして、決まったようにトラブルが起こるのである。
収録し始めて5分。
収録デッキのワーニングランプが
怪獣にやられピンチになったウルトラマンの
カラータイマーのごとく点灯し始めた。
あれ、何かがおかしい。
嫌な予感がした。
VTRデッキの回転が止まった。
恐る恐る近くの人に報告するヨウメイ。
すると原因が判明。
なんと、収録しているテープが
VTRデッキのヘッド部分に絡まったのである。
当然、撮影技術のテクニカルディレクター
が烈火のごとく怒り飛び込んできた。
「何をしとんじゃ、素人に担当させるな!
交代しろ。」
ヨウメイの説明を聞くまでもなく
即、別のカメラアシスタントに交代である。
強烈な現場デビューであった。
はたまた、繁殖しすぎた鳥を撃退する企画があり、
湖畔にある島にテントを張り泊まり込みで
撮影を続けていたときのこと、
出演者が鳥撃退作戦を考えるため
テントに入り込むことになった。
その流れをカメラをずっと回しながらついていく。
ヨウメイはカメラアシスタントとして
カメラマンの後ろからついて行く。
テントに入る瞬間、なぜか嫌な予感がした。
テントの入り口を出演者が開けて入りカメラマンも続いて入っていく。
ヨウメイも続かなければと思いテントの中に入った。
するとテントの中は出演者とカメラマンの2人が
場所を占有してしまいヨウメイの居場所がない。
仕方がないのでテントの入り口に立っていた。
するとカメラマンから蹴り飛ばされた。
これをヨウメイは纐纈キックと呼んでいる。
なぜか、カメラマンの表情が鬼の形相に変わり
ヨウメイをにらんでいるではないか。
そして目が、
「お前、そこをどけ」
と告げていたのを見逃さず、
無理やり中に入った。
するとまた纐纈キックが飛んで来た。
撮影後、鬼の形相から仏の顔になったカメラマンから、
「お前が、入り口のところに立ってたんで
光が遮断されて、暗くなった。
入らんでもええんやったら
無理して入らんでもええよ。」
と猫なでごえで教えられたのであった。
ビデオカメラは繊細である。
ちょこっとの光で映像の明るさが大きく変わる。
ヨウメイは纐纈キックをくらい学習したのであった。
つまらない会社の上司の顔色は伺わなくてもいいが
カメラマンの顔色は常に伺えと。
ちょっと話は逸れるのだが、
纐纈キックをお見舞いされヨウメイは
このカメラマンを恨んでいるかというと、
全くそんなことはない。
なぜなら、撮影中は画をとる為に鬼になるが、
後になって、カメラアシスタントとして
使えなかったヨウメイに
「ウチの会社に来ない」
と声をかけてくださったありがたい人であり
ずっと尊敬してるのである。
話を戻すことにする。
多くの失敗を繰り返し、辞めようかなと
思っていた時、
顔も知らなかった山崎さんを
教えてもらう機会が訪れたのであった。
東京サウンドプロダクションの
お仕事でたまたま会社を訪れていた。
東京サウンドプロダクションとは
通称TSP。
ヨウメイにとって撮影技術のいろはを
いろいろと教えて下さった
神様のような方々がいる撮影技術会社である。
TSPのカメラアシスタントが
その日収録してきていたテープをチェックしていた。
テレビモニターの中には
映画「アカルイミライ」に
出演していたオダギリジョーさんの姿が。
次の映画の撮影に望んでいるところを追いかけた
ドキュメンタリー番組の撮影であった。
そのオダギリジョーさんの向こうに
ビデオカメラを構えたカメラマンの姿が!!!
そのカメラマンはカメラをオダキリさんに
向けたまま全く動かない。
そして撮影しているTSPのカメラマンも
オダギリジョーさんとカメラマンを
撮影し続けている。
お互いのカメラマンが全く
ポジションを変えようとしない。
どちらも画を譲ろうとはしていなかったのである。
「ヨウメイ、知ってる?
オダギリさんの向こうに映ってる
カメラマン日本の重鎮だよ」
撮影部のビデオエンジニア、佐藤さんの
声がした。
「日本の重鎮ですか?いったい誰なんですか?」
「撮影している向こう側で
ビデオカメラを担いで撮影しているのが
山崎裕さんだよ。」
「え、本当ですか?
映画『ワンダフルライフ』のカメラマン、
山崎さんですか?」
なぜかわからないが話しているときの
佐藤さん、めっさうれしそうであったのを覚えている。
「60歳を迎えられても、現場に出られて
10キロもあるビデオカメラ担いで
撮影してんだよ。」
「ええ、60歳ですか!? 現役!?
本当ですか?」
「こちらも巨匠のカメラマンが撮影に
行ってたんだけど、
お互い画を譲らないのがまた凄いよね。」
佐藤さん、ただのビデオエンジニアではない。
撮影機材のメーカーが新製品を開発するときに
相談に来るほどの凄い人である。
日本で5本の指に入る、ビデオエンジニアの神様と
聞いていたヨウメイである。
そんな、佐藤さんが
子供が好きなことを話しているような満面の笑みで
山崎さんのことをいろいろと教えてくれた。
60歳を越えて現場にでる。
昼夜を問わず、撮影が行われる
テレビや映画の撮影現場はカメラマンとしての
センスも必要であるが体力も必要である。
ましてや、ドキュメンタリーの撮影現場とも
なると出演者が急に走り出したりすると、
10キロものビデオカメラを担いで追っかけて
撮影しなければならないのである。
果たしてヨウメイは60歳で現場に出ることが
できているのか?
この時、一抹の不安がよぎったのであった。
それは、周りのカメラマンを見渡してみると
会社の都合もあるとは思うのだが、
50歳を越えられると撮影を続けたいのだが
現場に出してもらえず、
会社でデスクワークをしている方々が多かった。
そして、長時間の仕事に就くよりも、
時間の短い楽な仕事に就きたがる
カメラマンが多かったように思う。
何よりも、一番の問題は、
歳をとったカメラマンは動いてくれないから
声がかからなくなっていくと
いうことを耳にしていたのであった。
60歳で撮影の依頼が来て
ドキュメンタリーの現場で撮影をしている
山崎さん。
現場ではどんな会話が行われているのだろう。
そして、どんな方なのだろうか?
そして何よりも、撮影技術を盗むためにも
山崎さんの現場を見てみたい。
その、思いがかなったのが
是枝裕和監督の映画「誰も知らない」である。
1988年に起こった、巣鴨子供置き去り事件
を題材にした作品。国内外で数々の映画賞を
獲得した傑作である。
その映画「誰も知らない」のメイキング映像、
「誰も知らないができるまで」で、
山崎さんが撮影する様子を見ることが
できたのであった。
感想は、山崎さんの撮影中の動き方、
本当に60歳を越えてらっしゃるんですか!?
もっとお若いのでは山崎さん!!
というほど俊敏すぎた。
部屋の一室での撮影中、
撮影助手がカメラレンズのフォーカスか
明るさを調整しようとした時、
出演している子供たちの表情が良かったのか
わからないが急にポジションを変え
撮影を始めようとする山崎さん。
凄い。
60歳を越えた人の動きではない。
そして、現場で指示を出し、撮影を進めていく、
山崎さん。
「優秀なカメラマンでも、現場の仕切りが悪いと、
俳優や、女優から凄まじいプレッシャーがかけられ、
その重圧でぶっ壊されちゃうよ」
と佐藤さんから映画・ドラマの撮影現場で
プレッシャーで壊されたカメラマンの
お話をいくどと聞かされていたヨウメイである。
山崎裕さん、カッコいい。
60歳を越えて現役で続けられているには
何か秘密があるに違いない。
それが知りたい。
山崎さん、一体何処にいるんですか!?
誰か知らないである。
技術会社との折り合いが悪く
制作会社に仕事の場を移したヨウメイ。
そこで、撮影の神様を発見したのであった。
次の撮影の資料を届けに行ったときのこと、
ふと横を見ると偉い人と話している
山崎さんの姿が!
「誰も知らないができるまで」を
何度も見ていたヨウメイにとって
見間違えるはずはない。
ただ、このとき、ヨウメイの頭の中には
佐藤さんから教えていただいた、
「山崎さんは、日本の重鎮だよ」
という言葉が頭の中に響いていた。
山崎さん、話かけて怖い人だったら
どうしよう。
それに、とてもカメラマンとして凄い人と
いう思いが頭の中によぎり
何もできなかったヨウメイであった。
今思えばあの時、ダメ元でも挨拶していれば
良かったと思うのであった。
その山崎 裕さんに念願がかなって
インタビューができる。
本当にそんなことがあって良いのか。
ただ、いささか心配もあった。
山崎さん無口で、あまりしゃべって下さらない
方だったらどうやって話を聞き出そうと
いう一抹の不安を抱えたままついに山崎さんと
会う瞬間がおとずれたのであった。
担当のKさんが、
「プログラムディレクターの山崎です。」
と山崎さんを紹介してくれた。
「始めまして、撮影にきましたヨウメイと申します。」
心の中は、お会いできた嬉しさと、
不安でドキドキであった。
「座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバルの
プログラムディレクター、山崎です。
今日はよろしくお願いします。」
あれ、怖いかなと思っていた山崎さん、優しい。
ヨウメイの不安は一瞬で解消されたのであった。
ただ、今度は山崎さんを前にして緊張が襲って来た。
それは悟られてはならない。
「ドキュメンタリーフェスティバルに
ついてのお話をお伺いしたいのですが…」
「どういった段取りで、
お話をすればよろしいでしょうか…」
「では入場口から横に入ったところに
ポスターを張りますので
そちらでインタビューをお願いしてもよろしいでしょうか?」
「わかりました。ちょっと打ち合わせありますんで
先に準備してお待ちになってて下さい。」
これは準備に時間をかけてはならない。
いつ来られても直ぐ撮影できるように
三脚を置きカメラを置いて画角を決めた。
準備は整った。
しかし、山崎さんが現れない。
あれ、おかしいな、もしかするとまだ、打ち合わせで
時間がかかっているのかもしれない。
ちょっと会議室の方を見に行こうとした時、
ふとホールの先を見るとエレベーターが
が降りて来た。
扉が開き中からなぜか打ち合わせ中で
あるはずの山崎さんが出て来られた?
あれ、山崎さん!?
山崎さんがヨウメイに気づき、
「どこにいたんですか? 」
山崎さんが、小走りに駆け出した。
山崎さん、駆け出さなくて全然大丈夫です!!
ヨウメイは心の中で思った。
「ちょっと探していなかったんで
外まで探しに行っちゃいましたよ」
山崎さん、時間がないのはわかりますが
歩いてください。
何かあったらどうするんですか!
責任とれません。
「では、始めましょうか。」
山崎さん笑顔である。
「このドキュメンタリーフェスティバルの趣旨は
なんですか?」
「映画・テレビの枠を超えたドキュメンタリー映像の
祭典で、学生の作品から、テレビ、映画まで入選した
作品を上映します。」
丁寧に一つ一つの質問に応えて下さる山崎さん。
お話をお伺いする機会があれば、どうしても聞きたいことがあった。
「多分、放送時間の関係上
使えないかもしれないですが、教えていただいて
よろしいでしょうか?」
「何でもきいてください。」
「どうして、映画・ドキュメンタリーのカメラマンに
なろうと思われたんですか?」
山崎さんの表情が崩れ、子供の一番すきなことを話す時の顔になった。
「映画が好きだからです。だからカメラマンを
続けているんです。」
カッコいい。
「では作品の選考がありますんでこれで行きます。」
インタビューが終わり、
山崎さんが作品の選考に戻っていった。
山崎さんが去ったあと、ヨウメイは気づくのであった。
名刺を貰い忘れた!!!!
名刺があれば山崎さんのいらっしゃるところが解る。
そうすれば出演交渉の余地もあったのである。
ただ、Kさんの名刺は頂いていた。
こうなった無理だと思うが、思い切って
山崎さんの連絡先聞いてみるか。
聞いてダメで元々。聞かないで後悔するより
聞いて後悔する方がいい。
直ぐにKさんに連絡をすると
「是非とも、山崎にインタビューして下さい。」
本当ですか?
そんなことあっていいんでしょうか?
山崎さんの連絡先がヨウメイの元に
届いたのであった。
山崎さんに出演依頼をお送りすると、
今イギリスで番組の撮影中ですので、
戻りましたらお時間とれるかもしれません。
とお返事が返って来たのであった。
山崎 裕さん 前編 (65分)
山崎 裕さん 後編 (45分)